小泉内閣メールマガジンが第250号にて五年間の幕を閉じた。
ある意味で感慨深い。 いまやスパムの横行でメールマガジン文化は瀕死の状態 ひと昔前はコミュニケーションツールの花形だった。 小泉首相がマガジンと歩んだこの五年で その文化は育ち花開き、やがて衰え悲しき終焉を迎えた。 さながらひとの生涯のように。。。 現代に目をやると 今はブログとSNSをはじめとする文化が花盛りだが 諸行無常 そのときに最高のツール、最高の文化と思えたものも 一年後二年後にはどんどん陳腐化してしまうだろう。 次になにがくるのか、いまが無駄になるのか そのような期待も不安もふきとばして 最後まで残るのは「不変なるもの」 最後にはページでの情報発信の 文化を地道にまもっている人こそ いつの時勢にも、したたかに そして力強く生き残る人だと想像するが 如何だろうか さてこのブログも いつまで続けるやら・・・ お茶を一杯 #
by ec-10
| 2006-09-25 08:10
| EC徒然傘
忘れもしない大学1年の頃
世界的名曲「ホテルカリフォルニア」がリリースされた。 しかしそのライナーノーツの低俗さは今でも覚えてる。 「タイトル曲、この素晴らしさは、まずは冒頭12弦ギターのチューニングが あっていること・・・」(実際の記述は違うけど、ニュアンスはほぼこの通り) これを呼んだ瞬間、私の中で評論家という人のステイタスが音をたて 崩れ去ったのをおぼえている。プロたるもの、チューニングはあっていて あたりまえ。よもや、それがアルバム賛辞の言葉になるとは思えなかった。 四半世紀たった現在。 やはり、チューニングのあってない論評も多い。情報発信の洪水の中 われわれに求められるのは、その全ての情報を鵜呑みにせず、しかと 自分のフィルターで本質を見極めることだと思う。 現状の怒涛のようなweb2.0の波はネット先進国からの輸入であろうが そこで我々は立ち止まり、もういちど自分のスタンスですべての情報を 咀嚼せねばなるまい。 #
by ec-10
| 2006-09-05 00:45
| EC徒然傘
某ショップ団体のMLで、HTMLメールをめぐって集中砲火を浴びたことがある。
私はそんなものは邪道、と投稿する傍ら嫌がらせの電話・メールまで 舞い込む始末には閉口した。同胞なのに、なんて恥ずかしい手口・・・ けども自分の論じたことには悔いはなかったし、 事実、予想どおり、非常に短期間でHTMLメールの天下は終焉した。 まるで明智三日天下のごとく・・・ ときは移り、いまはウェブ2.0や3.0だと皆がいうが これにも私は心動かさない。 やがて手段はどんどん変遷をみせても、核心のみ残る。 ブログの急速増幅は、やがて逆にブログそのものの価値を引き下げると予測する。 そもそもロングテールなどとは、10年前から暗黙に実践してきた道で なにも目新しくもなにもない。ただ言葉が発生しただけだ。 さらにWikipediaは万人が編集できるゆえ、致命的な間違いも含んで 著しく信憑性にかける一面もある。情報の質がさらに問われているのだ。 いまのトレンドを逃しても、やがてくるウェイブに乗り遅れても ビジネスの本質をもっていれば、なにも揺るぐことはない。 私のスタンスと視野は2.0も3.0も既に凌駕し、どんなバージョンにも適用する。 だから私のバージョンは、ウェブ・フォーレバーだ。 さぁライバルたちよ、かかってらっしゃい! #
by ec-10
| 2006-08-14 22:41
| EC徒然傘
先日とある映画を娘と鑑賞し
素直に感激をし、娘とも会話がはずんだ。 個人的には★いつつの映画であった。 しかしネット上はその映画の酷評で溢れかえっていた。 これらを先に読み漁って、先入観をもっていたら、 あのように素直に感激できただろうか。できたとしても、 どこかに感激に向かうちからの抑止がかかったはずだ。 どうも「負」の連鎖がおこっているようだ あおる誰かがいて その人は論評にも長けていて だから、一般の人がそのレビューが参考になったとして 更に酷評を続ける いわいる ネットに情報が氾濫している 誰でも情報や意見を発信できる ことの弊害だと そもそもインターネットの革新とは、マイノリティー(少数・微数)が それぞれの価値を見出し、的確な住処を見出すことにあったはずだ。 ところが氾濫するレビューというのは ショップでもシネマでも、マジョリティー(多数)の論理に陥っている。 多数の方が思う方向に、その品やサービスや映画の評価が くだされようとしているが、これは甚だ誤った方向性である。 情報が氾濫する世の中になればなるほど たとえ酷評が氾濫しようとも、それには惑わされず 「負」の連鎖を断ち切って 自分にとって価値のあるもの 輝きのあるものを見失わないことが とても大切な社会になってきたのだろう。切におもう。 #
by ec-10
| 2006-07-31 15:59
| EC徒然傘
法には触れないが、あきらかに「暴力」として存在するものがある。
まずは『音』 およそBGMというのは会話が途切れた時にふと聴こえるぐらいの 音量であればこそ真価を発揮するものだが、むかし千房という お好み焼き店に入ったときに、鼓膜をつんざくような音量でBGM がかかっていた時がある。美味しい味すべてが、聴覚への暴力で 消されてしまったことはいうまでもない・。 BGMとは心を和ませ癒し、会話の潤滑油であるべきもの。 決して店主の一方的な思い込みだけで音量という暴力と用いて お客様に刷り込むものではない。 次に『薫り』 先日、新幹線のグリーン車で通路を隔てた窓席で、表現できないよう な強い薫りを漂わせるご婦人に遭遇した。幼児が戯れに大きな声を 出すのは、親を経験したもの・・あるレベルまでは耐えることができる。 しかし、この女性の過剰香水というものだけは耐え難い。 法律でこれを裁くことはできないものの、これは明らかな暴力。 新幹線こそ最良の書斎と心得ている私が、なりふりかまわず 車両をかわったことはいうまでもない。 そして『言葉』 先日のジダン選手。示談にすれば良かったと洒落を語る場合ではない。 実際の暴力をふるう行為は許されないけども、最後の最後の花道で あのフィナーレを選ぶことは、誰も予想できず、また本人も予測できず、 そして望まない道であったに違いない。 それをそこまでさせたのは・・ おそらく移民ゆえ様々なコンプレックスや負い目があった人生であることは 想像に難くない。それをバネに、それを肥しに、信念を貫き道を築いたから こそ今がある。よって、今がある根源は、彼のコンプレックスに回帰する。 おそらく、誰も触れてはいけない、心の琴線に触れるような言葉のやり取り があったと拝察する。だから言葉もまた立派な暴力。 身近なメールでも小さな暴力は存在する。 お客様から頂戴するメールで、時折 「お願いします!!!」と!マークを乱発されるときがある。 !マークがなければ、単なるご依頼事項として粛々と進めることが できるのであるが、たぶんお客様に他意はないにしても !!!とやられると、強制をされているようで、大変なプレッシャー と一種の不快感を感じてしまうことは確かだ。 省みて、自らは言葉の暴力を行使してはいないのか。 無意識に使っているかも知れない。今日からはまた 言葉の旅がはじまる。 それがウェブマスターの使命だ。 ★和ちゃん #
by ec-10
| 2006-07-23 01:25
| EC徒然傘
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